お茶の博物館
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日本茶博物館

江戸時代−お上と庶民

  ここではどのように庶民にお茶が広まっていったのか。将軍を初めとしてお上の飲んでいたお茶がどのように日常普及品になっていたかを考えます。 江戸時代は将軍や幕府の人たちがお茶を楽しみ、毎年「宇治採茶使」に茶壷を持たせて江戸に運びました。 その一行をお茶壷道中と呼びます。 それが制度になり「将軍様のお茶が通る」といって誰もが路傍に控えてお茶つぼが通るのを待つようになったのは1633年の事でした。  

 江戸時代は庶民もお茶を楽しめるようになった時代でした。又江戸時代にはお茶の生産が大きく進展した時代でした。江戸時代の茶の本「本朝食鑑」(著者 人見必大)によれば 、江戸中期には抹茶は宇治以外に産地がないが煎茶は各地に産地がきています。 (ただ現在の煎茶ではなく煎じたお茶です。)

 「江戸で販売される煎茶は駿州(静岡)・信州(長野)・野州(埼玉)・奥州(東北)の産である。」と書かれているように例えば産地と江戸の庶民など消費地と産地の間にお茶の生産関係ができ始めています。 (ただ現在の煎茶ではなく煎じたお茶です。) また、「近頃江東(東京都墨田川の東岸)では朝食前に煎じ茶を飲む、特に婦女が多いとしている」という様に、各地に煎茶が普及しお茶が全国に広がりお茶が庶民にも飲めるようになりました。 (ただ現在の煎茶ではなく煎じたお茶です。)

 煎茶ができはじめると、煎茶道も開祖というべき人が生み出されてきました。 高遊外(売茶翁)という僧侶です。長崎に留学中、煎茶を知りのち煎茶三昧の生活をします。

 初めは、水や石の清らかなところで茶を煎じて訪れる人に飲ませていた。身分で人を差別せず、代金を払おうと払うまいと頓着せず、色々な世の中の出来事をのどかに語って聞かせるので誰しもこの翁に慣れ親しむようになった。57歳で京都に上り東山の通仙亭という茶店を構えて売茶をなりわいとしました。大仏の池辺や、東福寺の紅葉山、嵯峨付近に至るまで洛中洛外に茶を売り歩いたのでたちまち有名になりました。 売茶翁はその求道の中で煎茶に注目しました。 何よりも煎茶そのものに新しい魅力があったのでしょう。売茶翁と同時期に画期的なお茶が生まれます。

 京都の篤農家永谷宗円が1738年、蒸し製煎茶と言われるそれまでとは違って格段の差がある高品質をもった新しいお茶を開発しました。 それまでは煎茶は新しい葉や古い葉、固くなった芽などを煮てから釜を使って作ったといいますが、硬葉や老葉の混じらない良い生葉を用いて蒸しほいろで揉み乾かし、色青く、香味ともに良い製品を作りました。宗円は要するに煎じ茶のよしあしは、蒸し方と揉み方と乾燥により決まると言っています。

 それまでのお茶は茶色だったのですが、宗円のお茶はみずみずしい緑色だったことから青製と呼ばれ、それに対してそれまでのお茶は黒製と呼ばれました。宗円はこの煎茶を江戸の茶商に売ってもらい大評判を取りました。

 売茶翁は、宗円を訪れてお茶をごちそうになっています。蒸し製煎茶という新製品の開発の背景には、日本の農業の発達があったはずです。部分的ではあれ製茶業が独立した生産分野にまで成り立っていたはずです。そして売茶翁の茶道もそれを背景としていました。 そこには生産を基礎とした文化の成立という大変健康な文化の姿があります。

 庶民は、どうお茶を飲んでいたのでしょうか。江戸後期の国学者前田夏蔭の著作「木の芽説」によれば、「今日ではどんな貧しい家でも、朝夕これを煮ぬ家もなく、四六時中これを汲まぬ人はいない。」とあります。 誰でもが好きな時にお茶を楽しんで飲めるようになっていたという証です。


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